言った本人にとっては特別な言葉ではないのに、相手にとっては大切な言葉として不思議といつまでも心に残り続けることがある。大袈裟かもしれないが、意外とそういった言葉がその後の生き方を左右することがあるかもしれない。自分のなかにも大切な言葉がある。ガキの頃人様に迷惑をかけないことを教えてくれたのはオカンの言葉であり、中学生のとき親を大事にすることや弱いものをいじめないことを教えてくれたのは兄貴で、大学生のときお金を貰って何かをすることへの責任を教えられプロ意識を持つようになったのはオトンの言葉のお陰である。不思議だが、ガキの頃のことまで鮮明に覚えている。いつまでも自分のなかに残る言葉のうち、人として生きていくうえで大事なことを教えてくれたのは家族の言葉である。 家族以外の人の言葉でも、今も残っている言葉が二つある。この二つの言葉は、自分が医師として働くうえでの基本精神を作ってくれた言葉である。一つは、学生のときに付き合っていたナースの彼女がくれた言葉というかメッセージ。バレンタインにくれたメッセージカードには絵がプリントされていて、あるオジさんの医者が子供の差し出す縫ぐるみに聴診器をあてている絵だった。きっと、縫ぐるみの調子がおかしいと子供が近所のお医者さんのところに持ってきたのだろう。「こんなお医者さんになってね」というメッセージが込められていた。ここまで気の利いたオジさんにはなかなかなれないが、このお医者さんのような気持ちを忘れないようにしている。二つ目は、学生で臨床実習を行っていたときに確か循環器内科だったと思うが、そのときの指導医が言った言葉で、「今はいろんな検査を行える器械があって診断がつけやすくなっているが、我々医者は科学者であり技術者でもあるから、やはり昔の医者のように聴診器一つですべてが分かるぐらいでなければならない。」という言葉である。自分は内科医ではないので、聴診器を持つことはあまりないが、整形外科医に必要なのは靭帯の緩み具合を調べてみたり、損傷部位にあえてストレスをかけて痛みを誘発させてみたりなど、患者を触って診る診察手技、いわゆる触診である。このときの指導医の言葉が医学生であった自分の心を打ったからこそ、自分の手だけでいかに診断をつけるかという診察手技を研いてこれたと思っている。また、それは検査器械なんてない競技現場で自分の知識と手だけを頼りに、選手のケガを瞬時に判断することにも役立ってきた。余分だと思われるような検査を行ったことにより分からなかった疾病が偶然見つかることもあるから、器械の精度が高くなった現在はどんどん検査をするべきだとか、やれる検査は全部行い診療費を稼がなければ経営が大変だとか、様々な意見はあるだろう。それにしても最近は、あまりにも自分で見て触って判断せず、すぐにCTやMRIに頼る医師が多くなってしまっているように感じる。それどころか、見て(視診)聞いて(問診)触って(触診)を通り越して、まず検査ありきで画像を撮影しておきながら、その画像を正確に読み取れずに肝心な診断をできない医師までいるぐらいなのだから本末転倒である。こういう医者の体たらくが、病院は診療を受けるところではなく、レントゲンやMRIを撮るところといったような勘違いをする患者やトレーナーを生んでしまっているのである。ときには、レントゲンだけじゃなくCTやMRIを撮ってくれる医者がいい医者だと思っているような患者までいる。個人個人が意識しなければ、良くなることはない地球温暖化と同じで、もっと医師一人一人がプライドを持って、医師の能力を上げていく努力をしないことには、ますます医療の価値が落ちていくだけである。医療費抑制のために、これからも診療点数は下げられていくと思うのだが、下げられては検査を増やして帳尻を合わせるような医療をしていては、検査オーダーを出すだけといったチンパンジーのゴメス・チェンバリンでもできるようなことしかしない医者がさらに増えるのだろう。たとえ3分診療であろうと、その3分で確実に診断することができるように自分のこれまで学んできた知識と臨床経験そして研いてきた診察手技を凝集するのだから、1分1万で3万の価値はある診察だと豪語できるぐらいのプライドと自信を持った医者が増えて欲しいものだ。くだらないタレントが、テレビの中でヘラヘラと座っているだけでギャラが50万や100万と入るぐらいなら、我々医者の苦労と努力そして世の中にどっちが必要かを考えれば初診料が3万であっても何もおかしくないと自分は思いますがね。ちなみに、現在の保険診療における初診料は、その1割にも満たない270点(=2700円)です。 医療だけに関わらず、便利になることで見失っていくものっていっぱいあるような気がします。携帯電話という便利なものの普及で、相手と会って目と目を見て話すコミュニケーションの機会というのは、昔と比べてかなり減っていることでしょう。もしかすると、今の若者達にとっての大切な言葉は、実際に相手が話した言葉ではなく携帯メールに書かれた言葉であったりするのでしょうか。もしくは、そんな言葉はないのかも。話す言葉よりも書く言葉のほうが、かつての朝日新聞の広告ではないですが、ときに身勝手で感情的で残酷であったりしますから、大切な言葉になるよりも相手を一生傷つけることのほうが多いのかもしれません。いじめが私たちの頃と比べ陰湿になっているように感じるのですが、こんなことも一因であったりするのですかね。 自分は、いつも心にある大切な言葉のおかげで、まともに生きてこれたと(自分では・・・)思っています。これからもきっとそうだと思っています。何てこと言うと、ただでさえ医者って他人にはいいように見られがちなので、何の悩みもなく生きてきているように思われそうですが、医者だって人間ですから悩みもあれば落ちるときもあるし愚痴も言いたい、イライラだってします。でも、皆の前では凛としてないといけない。実はそんなつらいときは、昔の彼女のメッセージカードが助けてくれるのです。あのオジさん医者の姿を思い出すと、そうそうあんな風にならなければと少し心が落ち着くのです。
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