「今年の風邪は長引く」だとか「今年の花粉は例年に比べてひどい」とか毎年同じことを聞いているような気がする。同じように毎年「今年はいろいろなことがあった」と言うが、本当に今年は様々なことがあった。 日本だけでなく、つい先日もインド洋の大地震があったように地震や雨など天災の恐ろしさを思い知らされた。 社会においては、親が平気で自分の子供を殺したり、子供が親を殺害したりといった事件が多く、コミュニティの基本である家族という構造が崩壊し、国全体のコミュニティがおかしくなっていることをまざまざと見せつけられた。 経済では、戦後の高度成長で伸び続けた日本経済は物があふれ豊かになり、ちょっとやそっとでは消費は伸びず、まさに消費者のニーズにこたえられる物だけが求められている。土地という架空の価値に踊らされたバブルの崩壊から、いまだ立ち直れない見せかけ企業は、合併されたり潰れていくだけである。 政治では、何をもってして国益なのかきちんした説明もできないのに、「国益」という言葉のごまかしで憲法第9条が壊れ始めている(私個人的には、改正に賛成だが)。これは、政治家だけの問題でなく、こういった流行り言葉を作ってしまう幼稚なマスコミのせいでもある。 スポーツ界でも大きなことがあった。オリンピックではメダルラッシュ! こういうときにしか国民の愛国心が出ないのは残念だが(日教組の教育に問題ありと思う)、皆が日本のすごさを改めて知ったに違いない。しかしながら、今年のスポーツ界の目玉は何と言っても野球界の問題であったと思う。ここでやっと今回の見出し「プロ」という言葉を使用するのだが、日本プロ野球選手会会長である古田敦也選手は実にプロだと感じた。彼については、後ほど述べたい。
さて、私事に関しては、今年は開業元年で、9月開院に至るまでの1月からと、さらに9月開院後も実に奮闘した。開業にあたり私がこだわったのは、医師である私のみならず職員全員が「プロ」の集団であるということであった。それによって「本物」の医療を提供したかったのだが、PRにあたって「本物」という言葉を使用することを避けた。というのは、先ほど述べた「国益」のように何をもってして「本物」というのか、この言葉の定義が曖昧であり、簡単に使用してしまえば幼稚なマスコミと同じレベルになってしまうからである。「スリムドカン」でおなじみ「銀座まるかん」の創設者で2003年度納税額1位の斉藤一人氏の言葉に「『本物』の時代は終わった。これからは『本当』の時代だ。」というのがある。どういうことかというと、「本物」とは自称に過ぎず、他人が始めて「本当だ」と感じ、実力を認めてこそ本物なのであるということなのだ。この斉藤一人氏の言葉から、私は「プロ」ということにこだわることにした。つまり、本物の施設で本当のことを行うことができるプロが居てこそ、患者さんやジムの会員さんに本当だと思ってもらえるからだ。しかし、この「プロ」という言葉も定義がはっきりしない言葉ではないだろうか。 様々な人が様々なことをもって、「プロ」とは何かを語る。多くが、ある仕事でお金を貰っていれば、その仕事に対してその人はプロだという。それは全くの間違いである。その仕事に対してあることを達成するための戦略があり、そしてそのための戦術があり、責任をもって結果を出さなければ、その人はその仕事に対するプロとは言えないと私は考える。それが本物であり、周りが本当だと思うのではないだろうか。結果を出さずにお金だけ貰っているのは、単なる泥棒に過ぎない。戦術を持ってお金を盗むという結果を出してる泥棒のほうがよっぽどプロである。 プロといえば、どうしてもスポーツ選手や資格保持者だけという印象があるが、これも間違いである。何の資格もない事務員や秘書(資格をもった事務員や秘書もいるが)であっても、細かなところでプロであることができる。例えば、社長が秘書に「鉛筆を買って来い」と言ったとしよう。ここで、単に「はい」と鉛筆を1本のみ買って来て「どうぞ」と渡すのは、給料泥棒である。普段から社長に常に仕えている秘書は、社長がなぜ鉛筆を必要としているのかを聞くことなく、普段の仕事から自分で考え、それに必要と考えられる本数と念のための予備を用意し、きちんと社長が好むであろう尖り具合に削り、そして鉛筆を必要とするであろうデスクにおいて、「すべて準備しておきました」までがプロ秘書の仕事なのだ。まあ、今どき鉛筆を使用するような人はあまりいないと思うが(笑)、例えばである。
私が考えるプロとはこういうものであるが、古田敦也選手に話を戻そう。シーズンも終りに近づいていた頃とはいえ、まだ連日試合を行っていたにもかかわらず、2リーグ制を維持し新規球団の参入を許可するために、毎日のように会議、記者会見、テレビのスポーツニュースに出ていた。疲れきっているにもかかわらず、球場のファンには一切そんな素振りも見せずにプロとしてファンサービスも行っていた。「一選手が・・・」といったように兵隊程度にしか考えていないフロントと対等に話をするには、本業の練習でそれどころでないであろうに労働法についてかなり勉強していたはずである。結果、皆さんご存知のように来シーズンも2リーグ制、新規参入チームが誕生した。ストまで起こした選手会会長である彼は、どうすれば1リーグ制になるのを食いとめられるか戦略をもってそのための戦術のために時間を惜しんで必死で勉強し、会長という責任のもと結果を出したのである。
12月18日(土)の朝日新聞「フロントランナー」で彼の記事を読んで、彼が本当のプロであること改めて感じた。以下は、その記事からの引用である。 立命館大の4年生だった。87年11月18日。新人選択(ドラフト)会議が東京都内で開かれていた。大学の1室にテレビカメラが何台もセットされた。「古田選手、おめでとう」の垂れ幕が、指名と同時に窓辺から落とされる手はずだった。しかし、名前は一向に呼ばれない。一台、一台、テレビカメラは撤退。夕方、残った人数の新聞記者に残念会見を開いた。「おかんがかわいそうやった」 2位指名は確実、1位もあり得ると報じられていた。実際、パ・リーグのある球団の常務が実家に指名うぃ「確約」していた。指名漏れした晩、母は「プロは汚い」「約束したやん」と電話越しに泣いた。「絶対プロに入らな。入って、見返さなあかん」と思った。 「人って急にそんなに変わらんでしょ」。今の古田は言う。「でも、僕にとっては指名されなかったことは大きかった」 「負けたら何にもならん」の気持ちが強まった。結果を出すための情報を求め、視覚、聴覚を集中させた。トヨタ自動車に入社した88年、ソウル五輪があった。「絶対、代表に選ばれな」。一塁のカバーリングに熱心な捕手を好むコーチがいた。誰よりも遠くまでカバーへ走った。首脳陣の話に耳を澄ませ、右打ちを評価していれば、流し打った。代表として銀メダルを手にした。ヤクルトに指名を受けた89年は、就任が決まった野村克也監督(当時)の本を読みつくした。「考え方知って使ってもらう。出場しなきゃ意味ない」。1年目で106試合に出た。 ベンチでは「ID(データ重視)野球」の生みの親と言われる監督のすぐ前に座った。いつもリードを注意されたが、反抗せず、意見も言わなかった。3年目、一方的だった会話が「どうだ?」と監督から聞いてくるようになった。 野村監督の教えで心に残るのが「準備が一番大切」という言葉だ。 「結局、プロに入るためにやったのが、準備であり情報収集」。野村監督の言葉に通じるものだった。
箕山クリニックのスタッフは、私院長を始めとして患者さんやジムの会員さんに結果が出るようにプロの仕事をしている。しかしながら、箕山クリニック自身の目標はここでは明かさないが、当然ながら開業したてでその目標の結果をまだ出せていない。スタッフ個々だけでなく、箕山クリニックという組織自体が本当のプロになるために、今年はまだ準備期間であり、来年も準備をし続けるであろう。個々がプロ意識を持ち続け、いずれ組織としての結果を出すために頑張り続ける次第である。アテネ五輪で、最終的に繰上げで金メダルにになったが、銀メダルの時点での室伏広治選手が「結果だけでなく、それまでの過程が大事である」と言ったのが、印象的であった。
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