2005年04月 アーカイブ

第7回スポーツ外傷講義:インソール

今回は外傷(急性のケガ)というより、障害(慢性のケガ;繰り返しのストレスによって悪くなってしまっている)に対する治療として使用されることのあるインソールについてです。
インソールとは英語でinsoleと書かれ、言葉通りsoleのin側ということで内底(中敷)のことを指します。
足や足関節、膝(場合によっては、股関節や腰部も)の疼痛が、下肢のアライメントの問題や動きの中での使い方の問題、またケガをしてからの動きの異常によって起きている場合、このインソールにて足の角度をわずかでも変えてあげるだけで疼痛がなくなることがあります。
日本ではインソールという言葉が普及していますが、欧米ではOrthotics(矯正)と言われているように、足を変えてあげる治療です。
後述のように、インソールも様々なものがありますが、能力と技術を要する「入谷式」を箕山クリニックでは扱っております。
今回は、「インソール」について、箕山クリニックでの作製者である理学療法士(PT)宮澤に書いてもらいました。


インソールについて
 インソールの必要性において考えるべきは、人間は様々な動作のなかで、立つ、歩く、といった基本動作をおこなっており、さらにこの基本動作において唯一地面と接して身体を支えているのは足部ということである。この足部へのアプローチが下肢を含めた全身的な動きを誘導できるのである。全ての人間は進化の過程において、四足動物から進化し、二足歩行を獲得していった。四足歩行と二足歩行の大きな違いのひとつは、支持基底面(つまりは人間の身体を支えているところ)が極端に小さくなってしまっていることである。進化の過程において二足歩行を手に入れた人間は、狭くなった支持基底面である小さな足部(足裏といってもいいかもしれません)からの影響を足部に限らず全身的に受けることになった。例えば、靴の中に小さな石が入ってしまっているだけで、歩き方がいつもと違ってしまい、その歩き方の違いが、通常とは異なる箇所に力がはいってしまい、その通常とは異なる関節運動が疼痛を引き起こしてしまうことがある。この様な通常とは異なる関節運動は、単発的な運動が多く続くものでも疼痛が出現することは当然あるが、ランニングやサッカーなど絶えず動きを伴う運動で多く疼痛が出現することがある。この疼痛を出現させる関節運動を本人が自覚し、なおかつその異常運動を24時間意識してコントロールすることは非常に難しい。そこで、本人が意識することなく、無意識のうちにその異常運動をコントロールさせるためにインソールをシューズ内に挿入し、その異常運動をコントロールすることがインソールの目的となる。
 現在の日本では(日本に限らずそうであるが)、様々なタイプのインソールが出回っている。現状では、足型を採型しているもの、コンピューターで静止立位における足裏の凹凸を決定するものなどがあるが、これは基本的にアーチの長さと幅の決定にすぎない。足底圧を使い歩行をコンピューターで処理しているようなものはほとんど同じものか、もしくは部分パッドを追加しているようなものである。また既成パッドを貼付するようなものがあるがその方向性はみえていない。あくまでもインソールを作成する目的は、その人がもっている異常な関節運動を本人が“立つ”“歩く”といった基本動作から“走る”といった動きまでコントロールされなければならない。
 当クリニックで処方している足底板は『入谷式足底板』といい、他の方法と最も違っていることは、足底板を作成する前に足部テーピングやパッドを用いた評価により、足部各関節の肢位を決定し作製することである。実際には、足部は大きく前足部・中足部・後足部に分けられ、このうちの前足部と後足部に対して(中足部は全体としてひとつの塊としてみなされるので)テーピングを用いてそれぞれの部位の肢位をまずは決定し、さらに部分パッドを用い、全身的なバランスを決定していく。基本的なインソールの形状が決まり、実際のインソールが作成されたなら、次にはインソールが挿入されたシューズで歩行や立ち上がりなどを行い、動きやすさや疼痛の有無でもって微調整を加えて完成させていく。こうして最終的に、何回かの調整を随時加えてインソールを完成させていく。
 以上が当クリニックにおいて、用いているインソールの概要です。

基本を大切に

先日アメリカで、15年間にわたって植物状態にあったテリー・シャイボさんが亡くなった。フロリダ州裁判所によって延命中止、つまり尊厳死が認められた数日後であった。裁判所の決定後、ブッシュ大統領がそれに反する発言を行い、人の死に対して政治が司法に介入するということがおきた。生か死かの問題が、倫理観ということよりも政治の人気取りに利用されていることに非常に不快な思いをした。(ブッシュ政権は、宗教右派に支えられているようなものなので、尊厳死に反対する彼らへのリップサービスである。)「死」に関することといえば、日本においても臓器移植のために「脳死は死か」の論議が再燃している。今回「生か死か」について述べてみようとも思ったが、医師独特の見解になってしまう怖れがあったり、宗教による見解の違いもあったりし、非常に難しい問題であると思うので、このことについて深く語るのはやはりやめておこう。ただ、生か死か議論するときに忘れてはならないと思うのは、「死」について考えるより、「生きる」「生きている」とは何か?を考えることを基本にして欲しいと思う。そこから、何をもってして「死」というのか分かるような気がする。

前回コラム「物事の根幹を」に似たようなことだが、何を行うにも基本は大事にしたい。サッカー日本代表が、イランのアウェー戦で負けた翌日、「中田以外どいつもこいつも相手の当たりに負けて転びまくりやがって!なってない」と文句を言っていたら、ちょうど中田英寿選手のホームページにも「サッカーは、1対1で勝つことが基本の基本。システムがどうこうより、すべての敗因はそこにある。」というような趣旨のことを書いていた。彼のプレーで、ジダンやロナウジーニョのように特別なことを見たことはないが、何故彼はすごいのか。それは、相手の当たりに負けない、確実にキープする、正確にパスを出す、味方選手の状況をlook around、etc すべて基本中の基本をきちんとこなしている中で、そこからひらめきのプレーが出るからである。基本ができていなければ、どんなプレーも際立たないのである。

近年、世界に誇れた日本人の学力低下が目立ち、「ゆとり教育」の見直しが行われている。私に言わせれば、「ゆとり教育」が始まった時点で学力が低下していくのは分かっていたことで、やっと今頃になって見直されるのかと思うとバカバカしい。田原総一朗氏によれば、もともと臨時教育審議会が、教育の「自由化」を目指したのだが、「自由化」になると文部省や日教組の既得権益が奪われることとなる。そのため、文部省と日教組が激しく反対し、いつのまにか「自由化」が「個性化」という生徒の個性を伸ばすための「ゆとり教育」にすり替わったのだという。詰め込みや画一教育は悪だとして始まった「ゆとり教育」だが、詰め込み教育の何が悪いのだろうか。個性を伸ばそうといったところで、余程の子供ではない限り、小さい頃からきちんとしたアイデンティティーをもって、自ら個性を伸ばすことのできる子がいるとは思えない。詰め込みで、基本を何度も何度も叩き込まなければ、その先のことが出来るわけがないのである。詰め込み教育を受けてきた世代の私は、その当時非常に嫌であったが、何度も同じ事を行ってきたことが基礎となって、今役に立っていると感じている。よく「方程式など大人になって使わないから、そんなものは勉強しなくていい」など、くだらないことを言う人がいるが、将来の道がきちんと定まらないうちからそんなことを言うべきではないのだ。将来、どんな道にでも歩むことが出来るように、子供のうちはきちんとすべての基礎を学ばなければならないのである。子供に「どうして勉強しなければならないの」と聞かれたら、「将来どんな仕事にでも対応できるように、今は基本・基礎をきちんとしておかなければならない」と言えばいい。ニートNEET(Not in Employment Education or Training)が増加していることの原因の一つに、「ゆとり教育」も含まれることを認識し、反省すべきである。

これからの季節、ダイエットに関するエクササイズやトレーニング、さらにはあやしいダイエット食品がいろんな雑誌で紹介され始めるが、変な流行に流されず、ダイエットの基本は何か考えて欲しい。我々のコンセプトは商売目的ではないので、マーケティングに欠かせない真新しい(が、反面あやしい)ことは一切行わないが、基本はきちんとしている。その基本的で科学的なことから、キラーパスを生んでいるのだ。トレーナーを目指す若人、華やかさだけにとらわれて、キラーパスやフェイントだけの練習をしていてはダメですよ。きちんと基本の反復練習をしよう。私の、基礎知識のもととなっている学生の頃の内科の本や、医師になってから何度も読んだ診察手技の本、解剖の本、そして英語の辞書etcがボロボロなのをぜひお見せしたい。一部は、飼い犬にかじられてボロボロになっているという噂もあるが(笑)。